[HOME] < [建造物文化遺産を訪ねて]

猿島要塞&横須賀製鉄所ドック(船渠)  

 江戸湾防備の為の砲台

猿島全景(連絡船上から) 
  

 高校クラスメートの散策仲間4人と横須賀を歩く。その際訪れた猿島と瞥見しただけの旧横須賀製鉄所内に造られた乾ドッグ(船渠)見学メモである。
 猿島へは京急横須賀中央駅から徒歩15分ほど,横須賀新港三笠埠頭から1.7km,連絡船で10分ほどで着くことが出来る。
 横須賀市の沖合いに浮かぶ東西200m,南北450m,周囲1.6kmの小さな島であるが,東京湾の喉首に位置し,幕末の頃日本近海にしばしば異国船が出没し始めた頃危機感を抱いた徳川幕府が,三ヶ所の砲台を新設した。明治新政府になってからも,もうすこし近代的な要塞砲台が築造された。その遺跡である”切通し”・”砲台跡”・”トンネル”・”弾薬庫”・”兵舎跡”・”発電機室”などが残されている。
 連絡船を運航する㈱トライアングル社のパンフレットから猿島の歴史をたどってみる。
縄文時代 人々が猿島へ渡島していたと推測される。
山頂部から縄文式土器片発見(7~8000年前)
弥生時代 猿島洞窟から弥生式土器片,人骨など発見(1800年前)
古墳時代 土師器片・須恵器片発見
建長5(1253) 日蓮上人猿島に避泊(日蓮伝説生まれる)
弘化4(1847) 江戸幕府3ヶ所に台場築造(大筒配備)
(大輪戸・亥の崎・卵の崎台場)
嘉永6(1853) 黒船4隻浦賀沖に来航。久里浜に上陸(砲台沈黙したまま)
安政2(1855) 江戸幕府お台場放棄。安政地震により壊滅的被害を被る
明治14(1881) 陸軍省所管となり砲台築造に着手
明治17(1884) 猿島要塞完成。一般人の立入り禁止
大正12(1923) 関東大震災。海岸の石垣崩れ,兵舎埋まる。
大正14(1925) 陸軍猿島要塞放棄,海軍省に移管(海軍要塞砲台完成)
昭和16(1941) 高射砲陣地として高射砲5座配備
昭和20(1945) 終戦(大蔵省財務局所管),軍事施設としての猿島の歴史終わる。高射砲爆破・カノン砲切断,米軍一部接収。

 猿島は明治時代から太平洋戦争が終わるまでずっと一般人の立ち入りが禁止され戦後も長い間国有地であった為開発からから取り残され,豊かな自然とともに明治期の巨大な構築物がしっかりと残されたことになる。

 船着場から登っていくとすぐ左手に発電機小屋,鈎の手に左へ曲がると島の中央の地山を削った塹壕のような切通し通路(右手にレンガ造りの弾薬庫・兵舎),その先にトンネルがあり,東部と北部の2ヶ所の砲台を繋いでいる。トンネルは長さ90m,幅4m,高さ4.3m。途中に横穴がうがたれその奥に大きな部屋が設けられている,弾薬の保管庫や戦闘時の指令所として使われたものと思われる。トンネルを抜けると三方が崖のように切り開かれた平坦地がありその東側が第二砲台跡。ここから島の東側尾根を通って船着場に戻る道の傍らにいくつもの円形砲台跡が点在している,おそらく太平洋戦争期の高射砲陣地跡と思われる。
 タブの原生林・スダジイの林,空にはトビが数羽ピーヒョロローと弧を描き・樹間にはウグイスの囀り・・・・・豊な自然が残された島の散策を終えて砂浜で爽やかな潮風を浴びて休憩後三笠埠頭に戻る。
       
発電機室

 
 蒸気タービンによる発電所として明治28(1895)年完成。ここでつくられた電気は建物の裏から切り通しを伝って島の中央部高台にある照明所へ送られていた。レンガ積み自立壁と木造キングポストトラス構造の屋根からなる。現在,海の家・売店・管理事務所用の自家発電機が据えつけられ現役の建物として使われている。

切り通し

 
 幅4m,長さ160m,砂岩よりなる地山をカットして造った島の東西を繋ぐ幹道。蒸気タービンによる発電所として明治28(1895)年完成。ここでつくられた電気は建物の裏から切り通しを伝って島の中央部高台にある照明所へ送られていた。       

弾薬庫&兵舎

 
 切り通しの脇の地山をくり抜いて壁をレンガで捲き立てた地下構造物,弾薬庫と兵舎が交互に並ぶ。レンガは優雅な「フランス積み」で中には「東洋組西尾分局士族就産所」とか「愛知名古屋東洋組瓦磚製造所」などと刻印されたものがあるという,明治維新により禄を失った没落士族達が造った煉瓦であろう。なんとも時代を感じさせる。
明治初期の本格的フランス積みレンガ構造物としてきちんと残っているのは富岡製糸工場・長崎造船所小菅ドック・米海軍横須賀基地倉庫等しかなく,歴史上価値の高い遺構である。        
  

トンネル
 
 幅4m,長さ90m,高さ4.32m。レンガで捲き立てられた洋式トンネルとしては明治13(1881)年完成の東海道線逢坂山トンネルに次ぐ歴史をもったトンネル。トンネルの中にも横穴が穿たれ,その奥に大きな地下空間が設けられている。弾薬保管庫や司令部・兵舎として使われたと思われる。

砲台跡

 
 19世紀中ごろ,江戸幕府iは異国船の江戸湾侵入を防ぐために弘化4(1847)年に3ヶ所の台場(大砲を据える台)を猿島に建設した,以来猿島は”要塞島”としての歴史を歩む。明治中期,明治政府は東京湾の守りを固める為に猿島に砲台と要塞を設けた。砲台にはフランスから輸入したカノン砲が配備された。しかし戦法の主流は海から空へと急激に変化し実戦で使われることは無かった。その後しばらくは,猿島は軍事拠点としては忘れ去られていたが,太平洋戦争の激化とともに戦雲が本土に迫り再び防衛施設として使われることになる。昭和16(1941)年ごろより鉄筋コンクリート製の円形砲座が5座造られ高射砲が配備された。これが散策路沿いのあちこちに点在する砲台跡である。高射砲は終戦まで米軍機に向かって火を吹き続けたという。戦後進駐軍によって解体破壊された。

 

 横須賀製鉄所ドライドック

  横須賀製鉄所(後に横須賀造船所,横須賀海軍工廠)は,幕末の1886年(慶応元年),江戸幕府の勘定奉行小栗忠順の進言により、フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所として開設された。その後海軍力を充実する必要に迫られ造船所とするため施設拡張に着手したが幕府が瓦解し,明治新政府に引き継がれた。
 造船はさまざまな技術の総合なので敷地内には,旋盤・鋳造・製罐・錬鉄・船渠・製鋼・製図・・・・各種の工場が造られ,まさに近代日本に産業技術をもたらした原点ともいえる場所である。かたや幕末の動乱にも関与せず明治新時代にもほとんど無用ともいえる状態で埋もれていった「猿島砲台」が,直線距離にして3kmほどしか離れていない同じ横須賀に存在したということはまさに歴史の妙とでも言うべきである。

 横須賀造船所は工部省などの管轄を経て1872年に海軍省の管轄になり,1876年8月には海軍省直属となり,1884年には横須賀鎮守府直轄となる。1903年には組織改革によって横須賀海軍工廠となり以降多くの軍艦が製造された。
 現米軍基地内に当時の遺構としての旧横須賀製鉄所ドライドック(船渠)が残されている。造船は行っていないものの艦船の修理に使用されている現役ドックである。基地内のため”軍港めぐり”の船上から遠望できるだけなのが残念である。


海側から見たドライドック(左から1号ドック,2号ドック,3号ドック)
 
ここはアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ(米国内の郵便物も「San Francisco in Yokosuka」で配達されるという)内側を見ることができないのが残念であるしいささか憤懣やるかたなし。

 ヴェルニーが設計したのは「乾ドック」と呼ばれる形式。海側の岩壁から奥に向けて細長いプールを造る。入り口は中空になった縦長の箱のようなもので蓋をする(閘門という)。この箱の水を抜けば浮かぶので,これを動かし入り口から船を入れて,再び箱を入り口につけ,今度は中に水を入れて沈め海側を締め切り,プールの中の水をポンプで徐々に抜いてプール内をドライ状態にして船体を露出し修理作業などをするという仕掛けである。原理は簡単だが,深さ15m,奥行き100mもある構築物で,高度な建設技術が必要である。三つのドライドックのうち二つはフランス人技師ヴェルニの設計・建設,もう一つ(現Bドック)は師が去った後,恒川柳作ら日本人だけで建設したわが国初の本格的なドックである(明治17年(1884)開渠))。ちなみに恒川は,その後,横浜ランドマークタワー敷地内に保存されている国重要文化財指定の旧横浜船渠2号ドックを完成させている(明治30(1897)年)